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    12.01.09 更新

      


中近笠鉾(昭和58年12月3日秩父神社境内)


1.はじめに

 秩父屋台囃子は、埼玉県秩父地方に広く分布し、秩父地方のそれぞれの地区で、古くから伝承されてきた祭り囃子です。
 これを上演する代表的な祭りが毎年12月3日を中心に行われる秩父市の秩父神社例大祭で、「秩父夜祭」として全国的に知られてます。
 ここでは、「秩父夜祭」に笠鉾・屋台を曳行する六つの屋台町の一つ、中近に今日まで伝えられ、毎年12月3日の大祭の当日、巡行する中近笠鉾の中で演奏される秩父屋台囃子についてご案内します。
 また、中近と中近笠鉾の概要についてもお伝えします。
 まずはこちらから→動画


2.中近の概要

秩父盆地と武甲山   「中近」とは、秩父市の中心市街地西部に位置する、中村町及び近戸町の両町会が祭事において合同する際の名称であり、秩父神社例大祭には、「中近笠鉾」を曳行し、祭礼行事に参加しています。
 ここは、秩父盆地中央部のなだらかな河岸段丘上の傾斜地であり、この地区の東には秩父の江戸時代からの町内(まちうち)である上町、中町、本町の町場の3町が隣接し、地区の西の境には、荒川が南から北へ流れています。
中村の街並み  また、地区のほぼ中央を東西に走る道路の緩やかな坂を上がった先に秩父神社が鎮座し、逆に、西に向かって坂を下ると、荒川の武之鼻の河原に出ます。ここでは、毎年7月20日の午後、秩父神社の川瀬祭りの神事が行われます。
 この地区の歴史は古く、また、古来から秩父神社との関係が深く、例大祭においても重要な役割を果たしてきました。
 かつては、田畑の中に農家や織物関連の工場、民家などが点在する風景もみられましたが、昭和期以降宅地化が進み、現在、秩父市内の町会の中で、最も大きな人口規模を有するに至っています


3.秩父神社例大祭と秩父屋台囃子

中近笠鉾(秩父神社境内)  秩父神社の例大祭の期間は、毎年12月1日から6日までですが、3日には6台の笠鉾、屋台が祭りに登場し、大勢の見物客で賑わいます。例大祭の祭礼行事の中では、この日の夜に行われる神幸祭が最も重要な儀式で、御輿が秩父神社を出発し、御旅所へと渡御します。
 この神幸祭の行列に続いて、6台の笠鉾・屋台の巡行が、中近笠鉾、下郷笠鉾、宮地屋台、上町屋台、中町屋台、本町屋台の順に行われます。
 これら2台の笠鉾と4台の屋台は、昭和37(1962)年5月23日に「秩父祭の屋台6基」として国の重要有形民俗文化財に指定されています。
ギリ廻し  中近笠鉾は、3日夜の巡行の先頭を行く特権を有していて、中近の印半纏の「一番組」の襟元は、このことに由来しています。
 秩父屋台囃子は、例大祭の当日、笠鉾・屋台が曳行される際、その巡行を賑わし、景気づけるための鳴り物として、笠鉾では床下の土台の中で、屋台では舞台後方の楽屋で演奏されます。この時、六つの町会の屋台囃子保存会によって演奏される秩父屋台囃子(以下「屋台囃子」といいます。)は、昭和54年2月3日、「秩父祭の屋台行事と神楽」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。


4.中近笠鉾


明治時代に同じ場所(中村町「十一屋」前)で撮った写真です  例大祭に付祭として笠鉾・屋台の曳行が始まった時期は、寛文年間(1661〜73年)であると長く伝承されてきましたが、近年、享保(1716〜36年)の頃からであることがわかってきました。
 中近が文献上登場するのは、延享2(1745)年からであり、笠鉾に関する中近町会文書は、安永4(1775)年以降の記録があります(それ以前の記録は敗戦直後、反故として売却され、行方不明となっています。)。
 中近は、笠鉾町として最古の歴史を有するほか、寛政7(1795)年に、今日では秩父地方における笠鉾の一般的形態となっている三層笠鉾を秩父で最初に採用したほか、文久3(1863)年には、登勾欄を秩父地方で最初に附設するなど、笠鉾の発展を常にリードしてきました。
 現在の中近笠鉾は三代目で、秩父の名工荒木和泉により、文久3(1863)年に構想が立てられ、17年後の明治13(1880)年に完成した秩父笠鉾の最高傑作です。
 この笠鉾の最大の特徴は、秩父の笠鉾としては初めて土台に屋根を設け、その屋根の上に笠鉾を立てた鉾と屋台の複合体で、「屋台笠鉾」と呼ばれる珍しい形式をもっていることです。完成した最初の年は、余りの美しさに多くの賽銭が投げ込まれ、内室の彫刻の一部を破損したと伝えられています。 夜の秩父駅前通りを巡行する中近笠鉾(平成12年5月)
 構造は、登勾欄付きの土台に、4本の柱を立て、中央に内室を据え、八つ棟造りの複雑な屋根をのせます。勾欄は土台の四方に回り、中近の伝統的装飾である竜の彫刻が巻きついています。
 土台部分から、内室と屋根を貫通する形で長い真柱(中近では「標木」(しめぎ)といいます。)が立ち、それに下から一層の笠、二層の笠、三層の笠、万燈雲型せき台御幣が付きます。3枚の笠には緋羅紗の水引幕を吊り、造り花を放射状に垂らします。
 なお、大正3(1914)年の電線の架設以降は、屋根までの略式の姿で曳行されています。
 平成12(2000)年5月27日夜、秩父鉄道秩父駅前。「秩父市制施行50周年記念行事」の一環として、本来の姿に組み立てられた中近笠鉾が提灯、ぼんぼり、万灯に火をともし、小雨交じりの空の下、大勢の人々が見守る中を駅前通りを往復しました。  翌28日午前10時、秩父駅前を出発した中近笠鉾は、実に87年ぶりに旧秩父往還を往時の姿で巡行し、沿道につめかけた人々に深い感銘を与えました。巡行の動画は→こちら


【はみ出しメモ】
 下の写真は2枚とも12月3日の朝、収蔵庫の前で出発を待つ中近笠鉾です。
 左は平成16年、右は17年。いずれも12月3日朝7時20分前後、ほぼ同時刻に撮影した写真です。
 平成16年の時点(左)で中近笠鉾の順路を覆っていた電線類が、平成17年(右)には消えたことがわかります。
 笠鉾復活の日が意外に近いかも知れません。

        平成16年12月3日    平成17年12月3日



5.秩父屋台囃子の継承

ならし  中近笠鉾が例大祭に登場した時代から今日まで、12月3日の例大祭の当日、中近笠鉾の中で屋台囃子を演奏し、また、三百年の伝統を有する屋台行事の一つとして、中近における屋台囃子を今日まで継承してきたのが、「中近屋台囃子保存会」です。
 なお、「中近屋台囃子保存会」は、中近町会が行う例大祭の屋台行事において秩父屋台囃子の演奏を担当してきたものであり、町会から独立した団体でも、中近笠鉾の曳行と無関係の演奏団体でもありません。また、組織の形態は、江戸時代からの自然発生的なものが今日まで続いており、厳格な組織ではありません。
埼玉県立民俗文化センター 第81回民俗芸能公演(平成4年9月27日)  保存会のメンバーは、中村町会及び近戸町会の構成世帯の男子ですが、長男であること等の制限は特になく、親子、兄弟での参加者も多くみられるなど、家系的な傾向もみられます。
 中近での屋台囃子の練習(「ならし」といいます。)は祭礼前の毎年11月25日から30日までの6日間、中村町屋台囃子練習場(27日のみ近戸町公会堂)を会場に夜7時から10時まで行われます。途中、8時半から9時過ぎまで休憩を入れ、小豆粥を食べる風習を現在も守っています。
 屋台囃子の伝承には、手本や定型といったものがなく、楽譜やいわゆるジゴト(口唱歌)は使われず、実際の演奏に直に接しながら行われています。
 子供達は、大人の演奏を聞き、自分も実際に演奏しながら、屋台囃子を体得し、また、他の演奏者から自分の気に入ったところを取り入れて、徐々に自分自身の秩父屋台囃子をつくっていきます。
 中近では過去において屋台囃子の伝承が途絶えたことは一度もなく、また、現在も多くの子供達の参加が見られ、後継者不足の兆しは全くありません。


【はみ出しメモ】
 中近の秩父屋台囃子の担い手は、現在、中村町、近戸町の全域から参加しています。しかし、昭和30年代まで、屋台囃子の担い手の多くは、ごく限られた狭い区域の世帯に集中していました。
 それは、かつて中村の「上平(「うえだいら」)」と呼ばれた区域、現在の住居表示で概ね中村町一丁目に当たる区域にある特定の世帯から親子、兄弟が屋台囃子に参加していました。
 主な家を挙げると、石川、武島、中村、大澤〔シンヤ〕、井上〔オンタケ〕、大澤、新井〔ツジ〕、浅見、高橋、嶋ア、岡島などです(〔 〕内は屋号)。このうち、井上、岡島が笛を、その他が太鼓を担当していました。また、この区域の外では、井上(寿助)、小池、近戸の柴岡などの家が太鼓を担当していました(以上敬称略)。
 昭和40年代以降、こうした閉鎖的な家系的集団の性格は薄れ、町会の構成員に開かれた伝承団体へと変わっていきました。
 ※印は昭和初年以降、太鼓長を務めた家です。注目すべきは同じ家から複数の太鼓長が出ていないことです。中近は伝統的に太鼓長の世襲を排除してきたと考えられます。


6.秩父屋台囃子の演奏


【昭和30年の中近笠鉾】屋台囃子は土台の中で演奏します。  屋台囃子に使用する楽器の編成は、中近の場合、大太鼓(長胴太鼓 2尺)1、小太鼓(附締太鼓 3丁掛)4、鉦(摺鉦 直径17cm)1、笛(篠笛 7穴2本調子又は3本調子)1です。
 祭礼当日の笠鉾内の楽器の配置は、大太鼓を、笠鉾前方の登勾欄の裏側の空間に麻綱で吊りこみ、小太鼓は、4個が床に水平になるように、木枠に固定し、笠鉾の後方に縦1列に設置します。太鼓の設置作業は「太鼓吊り」といい、大祭前日の12月2日の午後行われます。
 笠鉾の中には、常時18人前後が乗り込んで屋台囃子を演奏します。
 屋台囃子の曲目は、笠鉾が前進する時、大太鼓によって絶え間なく演奏される「屋台囃子」(中近では単に「大太鼓」といいます。)と、笠鉾の方向転換の時だけ小太鼓によって演奏される「玉入れ」の2種類です。
大太鼓の演奏(平成23年大祭)  屋台囃子の演奏は、小太鼓が4打のリズムを刻み、これが他の楽器の基本リズムとなります。演奏のリ−ドは、終始大太鼓が行い、これに合わせて鉦と笛が演奏されます。小太鼓の演奏は4人同時に行い、大太鼓の演奏は1人で行い、2、3分で次々と交代します。
 屋台囃子の奏法は、屋台町ごとに特徴がみられますが、特に、中近では、大太鼓の演奏者の独奏的な要素が強く、それぞれの叩き手は、自分自身の屋台囃子を即興的に組み立てて、個性豊かな演奏を行います。
 このため、笠鉾の中で屋台囃子を演奏する様子は、腰幕や彫刻などにさえぎられて外から見ることはできませんが、大太鼓の音を聞くだけで、誰が叩いているのか、演奏者同士で識別できるのです。
土台内部(小太鼓)  土台内部(大太鼓)


【はみ出しメモ】
 例大祭の当日、巡行する中近笠鉾の大太鼓の響きは、その圧倒的な迫力で聞く者の心を揺さぶり、魅了します。  中近で使用する本番用の大太鼓は、祭りに表・裏各2回、計4回使用すると、この太鼓を製作した東京都台東区浅草の「宮本卯之助商店」に持ち込まれ、皮の張替えが行われます。
太鼓職人(宮本卯之助商店)  隅田川に架かる言問橋の近く。通りに面した店舗の裏手にある作業場で、職人達が太鼓の皮を張っていく工程に立ち会っていると、秩父の祭り文化が、実は、浅草の江戸職人の鍛えられた伝統の技に支えられていることや、聞く者の心を捉える重厚な太鼓の響きも、江戸の太鼓職人の高い技術と弛まぬ工夫、心意気が造り出していることがわかります。
 昭和20年3月10日未明の大空襲でこの付近一帯は焼け野原となりました。様々な歴史を積み重ねながら、中近の屋台囃子は、江戸太鼓職人と中近の太鼓叩きが互いの技を認めながら、形づくられてきました。宮本卯之助商店(浅草)アーティストインタビュー


7.秩父屋台囃子の成立

 屋台囃子の起源を考えるためには、各地で伝承されている様々な民俗芸能からの影響はもとより、近世の巨大都市、江戸における多様な芸能との関連を把握することが必要です。そのような前提のもとで、その演奏内容や楽器の構成などから起源ではないかと思われるものに、江戸歌舞伎の下座音楽の「儀礼囃子」があります。
 18世紀半ば、屋台行事が歌舞伎との結び付きを強める中、儀礼囃子は歌舞伎とともに下座音楽の一つとしてその先進地、江戸から秩父に持ち込まれています。
 当初は屋台が歌舞伎や所作の上演場所を次の上演場所へと移動する。つまり屋台が曳行される時に次の開演を知らせる「呼び太鼓」として演奏されていた囃子を原型とし、やがて下座音楽から独立して演奏されるようになる。さらに、屋台行事の変遷に伴って今日の屋台囃子が成立したと考えられます。
明治13年新調の大太鼓(2尺)  それでは、屋台囃子は、いつ頃、どのようにして、「豪快」、「勇壮」と言われる今日のような囃子へと変化したのでしょうか。
 このことに関して、曳山研究家の作美陽一氏から、明治初期における大型笠鉾の登場が契機ではないかとの貴重な示唆を頂きました。
 明治13(1880)年、中近では現行の3代目笠鉾が完成しました。これにより、2代目笠鉾(栃谷上組笠鉾として現存)の時代と異なり、屋台囃子の演奏場所である土台の中に屋台囃子の奏者が20人近く、大太鼓の要員だけでも10人以上が同時に乗り込むことが可能になりました。
手前が明治12年まで使用の大太鼓(1尺8寸)  一方、この年、新しい笠鉾の完成に併せて大太鼓が新調されました(「予備太鼓」として中近に現存)。この太鼓は、笠鉾の登り勾欄裏のスペースの幅に合わせて作られ、大きさが2尺あり、前年まで使用していた1尺8寸の大太鼓(「ころがし太鼓」として中近に現存)と比較すると、直径、長さともふた回りも大きなものとなりました。 (この時、中近が導入した2尺の太鼓は、後に屋台囃子で使用される大太鼓の標準サイズとなって普及していったと考えられます。)    大型の笠鉾になったことで、@それまでの笠鉾に比べて約2倍の大太鼓の交代要員が同時に土台の中に乗り込むことが可能になった。A大太鼓が2尺になったことで、奏者は叩く程に鳴り響く大太鼓に立ち向かうべく力の限り叩き、力自慢の奏者同士の腕比べが自ずと始まった(今日の土台の中と同じ)。このように、大型笠鉾の完成とそれに伴う2尺太鼓の導入により、今日の屋台囃子成立の契機がもたらされたと考えることができます。
下郷笠鉾  そして明治29(1896)年、下郷が2代目笠鉾(皆野町に原屋台として現存)に替えて、格段に広い床面積を持つ3代目笠鉾を完成させ、その土台の中に大勢の太鼓の奏者が乗ることが可能になりました。
 これにより、中近下郷の二つの笠鉾町が太鼓において互いに対抗する土壌が整い、その後、両町内の太鼓を巡るライバル関係が昭和50年代半ばまで、実に100年近く続くことになりました。
 このようにして、屋台囃子成立の要因は、中近と下郷との対抗関係が原動力となって進行し、さらに、他の屋台町会へと波及していったと考えられます(昭和50年代半ば以降、中近にとっては、下郷という貴重なライバルを失った状態が続いています。)。


【はみ出しメモ】
 中近の収蔵庫には、これまで使用されてきた歴代の大太鼓が保管されています。年代順に整理すると、次のようになります。

                 中近の大太鼓一覧
通 称
直 径
製 作 年
製 作 者
使 用 期 間
転がし太鼓
1.8尺
不  明
丸山三右衛門(浅草新町)※1
不   明 〜明治12年
予備太鼓
2 尺
明治13年
中島太鼓(秩父大野原村) ※2
明治13年〜昭和 9年
本 番 用
2 尺
昭和10年
宮本卯之助商店(浅草聖天町)
昭和10年〜現在
金  鋲
2 尺
昭和62年
宮本卯之助商店(台東区浅草)
昭和62年〜現在
※1 焼印に「丸山三右衛門」の銘あり。丸山三右衛門は江戸期を代表する太鼓職人です。
※2 大宮郷の北隣の大野原村にあった太鼓師。平成19(2007)年10月、この太鼓は、浅草の宮本卯之助商店で皮の張替が行われ、この年の例大祭に、昭和8(1933)年以来、実に74年ぶりに中近笠鉾に吊り込まれました。笠鉾から鳴り響く明治の音は、聞く者に大きな感動を与えました。



8.中近笠鉾の曳行と秩父屋台囃子(昼)

宮参り  6日間にわたる「ならし」と大祭前日の「太鼓吊り」を経て、12月3日の祭りの朝を迎えます。
 中近笠鉾収蔵庫前では、笠鉾が昇ったばかりの朝日に燦然と輝いています。笠鉾の土台の中には、屋台囃子演奏のため、18人前後が乗り込みます。午前8時、笠鉾から2本の曳き綱が出され、いよいよ屋台囃子が始り、町会の人々が見守る中、出発の合図に100人を超す曳き手によって笠鉾がゆっくりと動き出します。
 屋台囃子の演奏は、笠鉾が前進する時は「大太鼓」が力強く曳き手の力を鼓舞するように叩かれ、途中の街角などで笠鉾が方向転換をする際には、その作業(「ギリ廻し」といいます。)が行われる間、大太鼓を止めて、小太鼓による「玉入れ」が演奏されます。
中町屋台とすれ違い  笠鉾は中近会所からまず秩父神社に行き、宮参りを行います。その後、大通りを上町方面に進み、途中、本町、中町、上町の各会所前で停止して挨拶を交わします。また、大通りでは、神社方向に向かう上町、中町、本町の各屋台とすれ違いを行い、この時、周囲は大変な盛り上がりを見せます。
 上町で折り返して中町まで戻り、昼の休憩となります。
 午後1時、中近笠鉾は中町を出発し、宮側町のキンカ堂前で折り返し、3時頃、再び秩父神社境内に入ります。夜の巡行の準備が始り、屋台囃子は、夜まで休止します。


9.中近笠鉾の曳行と秩父屋台囃子(夜)


中近笠鉾の団子坂曳き上げ  夜になると、笠鉾に付けられた提灯ぼんぼりに灯がともり、屋台囃子の演奏場所である土台の中には、裸のろうそくが前方の大太鼓の両脇に2本、後方の小太鼓の後ろに1本立てられ、太鼓の振動にが揺れて昼間とは全く異なる独自の雰囲気を醸し出します。
 進発の口上の後、屋台囃子が始ると、境内が歓声に包まれるます。午後7時、中近笠鉾が御旅所に向かって動き出します。
 神社を出ると、沿道を埋めた観客をかき分けるように大通りを進みます。途中、本町(諏訪神社入り口)で一旦休止した後、NTT交差点で左折、札所13番前を通過し、秩父鉄道御花畑駅脇の踏切を渡って団子坂下で停止し、曳き上げの準備に入ります。
御旅所に到着した中近笠鉾  この間、屋台囃子は止められ、土台の中では曳き上げ時に大太鼓を叩く順番が決められます。
 午後8時30分、屋台囃子が再開されると、100人の曳き手により、笠鉾がゆっくりと動き出し、団子坂曳き上げが始ります。大太鼓は「大波」を繰り返し、叩き手は渾身の力を振り絞って打ち込み、次々と交代。5、6人が替わる頃、笠鉾はようやく坂を登り切ります。やがて笠鉾は御旅所の定位置に着き、2番目の下郷笠鉾が隣に着くのを待って屋台囃子を止めます。
 続いて、4台の屋台が団子坂を登り、定位置に着きます。6台の笠鉾、屋台が御旅所に向かって扇形に並ぶと、御旅所では斎場祭の祭典が行われ、4台の屋台の舞台では、到着順に所作(舞踊)が上演されます。
午前1時過ぎ、近戸町を中近笠鉾が帰って行きます  午前0時過ぎ、所作が全て終了すると、中近笠鉾で屋台囃子が始まり、町内に帰るため動き出します。団子坂を下り、見物客がいなくなった暗い道を、笠鉾が朝出発した収蔵庫に向かって曳かれていきます。冬の星座が瞬く冴え渡った夜空の下、祭りが終わりを迎えようとしています。




(2002年 2月 1日  中村 知夫)