あらまし

秩父盆地に聳える武甲山  埼玉県のほぼ中央を貫き、東京都に入ると、隅田川と名を変えて東京湾に注ぐ荒川
 その荒川を遡った埼玉県西部の山間に秩父盆地が広がり、ほぼ中央に秩父地方の総社、秩父神社は鎮座しています。境内がある「柞(ははそ)の森」はまた、その南東に聳える武甲山を遙拝する聖地でもありました。

 秩父盆地の中心に位置する秩父の町は、かつて、行政、経済、文化、信仰の中枢として栄えていました
曳き踊り  秩父神社例大祭の期間は、12月1日から6日までですが、3日を中心に、付祭として6つの屋台町による屋台行事が繰り広げられます。
 2日は「宵マチ」と呼ばれ、午後から町場3町による屋台の宮参りが行われ、夜には、旧秩父往還の大通りを曳行されます。
屋台芝居  3日は、朝8時頃から4日の未明まで、2台の笠鉾と4台の屋台が秩父屋台囃子に乗って市街地を曳行され、また、4台の屋台では地元の女の子によって演じられる「曳き踊り」が行われ、午後には、当番の屋台町で「屋台芝居」が上演されます。
3日の夜7時、神幸祭の行列が秩父神社を出発し、約1キロメートル南にある御旅所へと渡御します。 団子坂の曳上げ 神幸祭のあとを、提灯とぼんぼりを付けた6台の笠鉾・屋台の巡行が、中近笠鉾下郷笠鉾宮地屋台上町屋台中町屋台本町屋台の順で続きます。
 色とりどりの冬の花火が打ち上げられる中、御旅所の手前の団子坂では、祭りのクライマックス、笠鉾、屋台の曳き上げが行われ、6台の笠鉾・屋台が御旅所に整列すると、斎場祭の儀式が行われます。
 4日の午前0時20分過ぎ、6台の笠鉾・屋台は団子坂を下り、各町内に帰っていきます。
 これらの屋台行事(笠鉾・屋台の曳行、屋台囃子、屋台芝居、曳き踊り)は、秩父神社神楽と併せて、昭和54(1979)年2月3日、「秩父祭の屋台行事と神楽」として、国の重要無形民俗文化財に指定されています。



【はみ出しメモ】

笠鉾・屋台が通過する時、架線が切断されます  12月3日の夜、御旅所に向かう6台の笠鉾と屋台は、札所13番の丁字路まで来ると、巡行最大の難関である団子坂方向に進行を変え、やがて団子坂手前にある秩父鉄道御花畑bP踏切を渡ります。
 この踏切では、笠鉾・屋台の通過のために、一時的に鉄道の架線が切断されるという珍しい光景が見られます。
 1922(大正11)年1月21日、秩父鉄道の秩父駅から影森駅までが電化され、この年の例大祭から架線の切り離しが行われるようになりました。このため、12月3日の午後8時頃から10時30分頃まで、秩父鉄道秩父〜影森間の列車の運行はなくなり、この区間はバスによる代行輸送が実施されます。
 祭礼行事のために鉄道の架線を切断する踏切は全国的に珍しく、多くの踏切マニアから注目を集める存在になっています。
 




沿革

秩父神社  秩父神社例大祭が始まった時期は不明ですが、古代に秩父神社が成立した頃、既に神事祭礼が行われていたと考えられます。
 鎌倉時代、秩父神社に妙見神が合祀されて「秩父妙見宮」と改名され、また、鎌倉幕府から神馬が奉献されて、以後、今日まで例大祭の神事として、神馬奉献祭が執行されています。
 江戸時代には、「妙見大祭」又は「霜月大祭」と呼ばれ、祭りの期間中(旧暦11月1日から6日まで)、大宮郷(現在の秩父市中央地区)の町場である上町、中町、本町の3町の大通りに絹大市が立ち、近隣の諸村から絹をはじめ、諸々の生産品が搬入され、諸国からの商人も多く訪れて盛んに取引されました。
秩父神社神輿  例大祭に、付祭として笠鉾・屋台の曳行をはじめとする屋台行事が始まった時期は、寛文年間(1661〜73年)であると長く伝承されてきましたが、近年研究が進み、いま少し後の享保年間(1716〜36年)の頃からであることがわかってきました。
 この後、江戸幕府により、数次にわたって屋台行事が禁止され、特に寛政の改革における風俗取締令では、寛政11(1799)年の祭礼に対する規制により、同年から文化6(1809)年までの10年間、屋台狂言、歌舞伎が禁止されました。
 明治22(1889)年の町村制施行により、大宮郷は隣接の別所村ともに秩父郡大宮町となり、大正5(1916)年秩父町と改称しました。
御旅所  明治39(1906)年には、煙火の打ち上げが始まり、大正期には秩父公園(御旅所周辺)における行事として定着しました。これ以後、煙火は、秩父町を構成する町内のうち、屋台行事を行う「屋台町」以外の11の町内(「煙火主催町」)が担当し、昭和23(1948)年から打ち上げ会場を羊山に移し、現在に至っています。
 さらに、昭和25(1950)年秩父町は市制を施行して秩父市となり、翌年からは、秩父商工会議所(翌年から秩父市観光協会との共催)による「秩父商工祭」の多彩な行事が例大祭の期間に行われるようになり、現在も「秩父夜祭観光祭」と名称を変えて実施されています。
 今日の秩父神社例大祭の構成について整理すると、概ね次のようになっています。



秩父神社例大祭の構成平成20年12月現在
構  成
役  割
担 い 手
内    訳
祭 典
神 事



奉 仕



神 楽
秩父神社
氏 子

氏子地域町会



神楽保存会
宮司、禰宜、権禰宜など神職、祭員

大総代ほか神馬世話人など
26町会(秩父市内24、皆野町1、横瀬町1)
・高張提灯と供物―26町会(外に高張のみ1町会)
・神社御輿奉仕者―旧市内町会から26(25)人
・神社行列奉仕者―旧市内町会から25(26)人

秩父神社神楽保存会
付祭り
屋台行事

花 火


屋台町

煙火主催町


協賛有志
6町会  中近 下郷 宮地 上町 中町 本町
11町会 日野田 野坂 熊木 宮側 番場 東町
      上野町 道生 桜木 相生町 別所
昭和の合併7地区14町会と横瀬町1町会
秩父夜祭
観光祭
周辺行事
秩父観光協会
〔花火・観光スターマイン大会〕
・花火協賛者 (企業、商店、個人、商工団体など)
〔その他のイベント〕
【現行】
土産物展示即売会、秩父織物展示即売会、
郷土芸能公開、
おらが自慢特産くらべ、写真コンクール秀作展
【消滅】
ミス・コンテストとパレード、秩父音頭流し、
秩父屋台囃子コンクール、獅子舞大会、
剣舞詩吟奉納






祭典と神幸行列

 秩父夜祭というと笠鉾・屋台の巡行や冬の花火に目を奪われがちですが、これらは秩父神社例大祭の付祭(つけまつり)、神賑(しんしん・かみにぎわい)の行事として位置づけられています。
 秩父神社例大祭は、12月1日から6日まで行われますが、大祭の期間中、次のような祭典が執行されます。
 ○前儀 1日 御本殿清浄の儀 例大祭奉行祈願祭
       2日 御神馬奉納の儀 新穀奉献祭 番場町諏訪渡り
 ○本義 3日 献幣使参向例大祭々典 御神幸祭 神幸行列進発
           御神輿発御 御斎場祭(御花畑御旅所) 御神輿還幸
 ○後儀 4日 蚕糸祭
       5日 産業発展・交通安全祈願祭
       6日 新穀奉献感謝祭併せて例大祭完遂奉告祭

 これらの中で、最も重要で盛大な祭典が3日の夜行われる神幸祭です。
神社御輿  この日の午後6時半、神幸行列が秩父神社を出発し、神社の真南に位置する御旅所へと向かいます。
 神幸行列は、先導大麻を先頭に、大榊、猿田彦、楽人、錦旗、御手箱、太刀箱、各町会の高張提灯と供物、神社神饌、大幣、神輿、宮司、大総代、そして2頭の神馬が続き、これらの行列の後を6台の笠鉾と屋台が巡行します。
 神幸行列の順路は、秩父神社の鳥居から本町交差点で左折。「大通り」を経由して埼玉県秩父地方庁舎前から札所十三番の交差点を左折。秩父鉄道御花畑踏切を渡り、団子坂を上って御旅所というコースです。
高張提灯と供物  そして、最後の屋台が御旅所に到着後の午後10時20分頃から斎場祭の神事が厳かに行われます。
 斎場祭の終了後、午前0時近くに今度は笠鉾と屋台が先に御旅所から各町内に向けて出発し、その後を神幸行列が続きます。神幸行列が秩父神社に到着するのは4日午前3時をまわります。
 ここで神幸行列に奉仕する町会について見ておくことにしましょう。
 神幸行列に高張提灯、供物(神饌)を奉仕する町会は、旧秩父市内の屋台町と煙火主催町にとどまらず、昭和30年代に秩父市と合併した地区、さらに、秩父神社の氏子地域である横瀬町、皆野町の一部の地区にまで及んでいます。
 昭和30(1960)年代中頃の記録によると、例大祭に奉仕を行う町会の数は、下の表のように皆野町から4、横瀬町から1、秩父市から31の合計36の町会でした。


神幸祭に奉仕する町会(昭和30年代)
町   会   名(神幸行列の順)
備   考
日野沢  金崎  大淵  三沢
皆野町
黒谷  大野原  田村  上蒔田  中蒔田  下蒔田  上寺尾
中寺尾  下寺尾  久那  大田  高篠  影森  浦山
秩父市
(新市域)
横瀬
横瀬町
別所  相生  日野田  野坂  熊木  上野町  東町  宮側  番場
中近  道生  下郷  桜木  宮地  上町  中町  本町
秩父市
(旧市内)

 これを平成20(2008)年の例大祭の状況で見ると、皆野町の金崎大淵、秩父市の浦山が奉仕を休止し、皆野町三沢は高張提灯のみを奉仕。また、秩父市の田村、上蒔田、中蒔田、下蒔田、上寺尾、中寺尾、下寺尾の7つの地区は、合同で「尾田蒔」として奉仕をしています。
高張提灯  この50年足らずの間に、神幸祭に奉仕する町会の数は36から26(ほかに高張提灯のみの奉仕1)に減少したことになります。
 皆野町の日野沢のように、長い間奉仕が途絶えていたものが平成15年に復活を遂げた例もあります。
 しかし、秩父地方全体で人口の減少と高齢化の進行は著しく、秩父神社の氏子地域でありながら例大祭の奉仕を断念したり、単独での奉仕に代えて合同で奉仕をせざるを得ないなど、神幸行列における高張提灯と供物の数の推移に、秩父地方の集落が抱える現状の一端を垣間見ることができるのです。






屋台町

町場の街並み(奥から、上町・中町・本町)  屋台行事が始まったと考えられる18世紀初頭、大宮郷の町場には、「上町」、「中町」、「本町」の3つの町内があり、これらは、南北に延びる秩父往還沿いの両側に、絹仲買商をはじめ、米穀商、酒造業者、居酒屋、質屋などの商家が細長く連たんする町並みを形成し、約3千8百人が居住していました。そして、本町に接して秩父神社(「秩父妙見宮」)があり、その例大祭の付祭には、3町内がそれぞれ参加してきました。
中村の街並み   また、3町内と同じ大宮郷の一部でありながら、その北西に隣接するなだらかな河岸段丘上の傾斜地には、町場と荒川をはさんだ向かい側の近在村落との接点をなす中村、近戸があり、例大祭の付祭には合同して「中近」として参加し、さらに、町場の北部には大宮郷に属する近在村落が広がっており、ここに、「宮地」と「下郷」の2つの祭礼集団が形成され、例大祭の付祭にそれぞれ参加してきました。
下郷(左)と宮地(右)の街並み  例大祭に屋台行事を行う6つの屋台町のうち、屋台は、「上町」、「中町」、「本町」の町場の3町内に村落地域にありながら妙見宮勧請の由来を持つ「宮地」を加えた4町内が、笠鉾は、村落地域の「中近」と「下郷」の2町内が、それぞれ担ってきました。
 近代以降、織物業やセメント製造業などの鉱工業の発展を背景に、町場の3町内は、大小の小売店や金融機関などが立ち並ぶ秩父地方の商業・経済の中心地として繁栄を遂げ、一方、 村落地域であった3町内は、特に1950年代以降の宅地化の進行により人口が増加し、旧秩父市内の住宅地として大規模な世帯数を有する町会へと発展しました。
平成12年に閉鎖された旧秩父セメント樺&ヱ謌鼾H場   しかし、織物業界の不振を契機に、1970年代から屋台町を取り巻く状況に翳りが見え始めました。
 21世紀を迎えた今日、基幹産業であった大規模工場の閉鎖や縮小が相次ぐなど、秩父の地域経済の地盤沈下を受けて、屋台町では、人口流出や少子高齢化が急速に進行するとともに、これまで町会の存立を支えてきた経済的基盤がますます衰退する中にあって、屋台行事の存続が図られています。


             秩父神社例大祭の付祭りと町会

行 事
種 別     
町     会  (住居表示)
形 式



屋台
行事




屋台町
(6町会)
 中近(中村町1〜4丁目 近戸町)

 下郷
(金室町 永田町 柳田町 阿保町 大畑町 滝の上町)

 宮地(上宮地町 中宮地町 下宮地町)
 上町(上町1〜3丁目)
 中町(中町)
 本町(本町)

笠鉾





屋台



煙火 
煙火
主催町
(11町会)
日野田 野坂 熊木 宮側 番場 東町
 上野町 道生 桜木 相生町 別所
煙火





屋台町と屋台行事

本町の横町  屋台町による屋台行事への関わり方は、町会の形態によって大きく異なっていました。
 ここでは、屋台町のうち、昭和初期まで本町で典型的に見られた、町場町内の屋台行事への関わり方を見ておくことにしましょう。
 さて、中近、下郷、宮地の旧村落地域の町内は、元々、戸数も少なく、農閑期を迎えた各戸が総出で、笠鉾・屋台の組立てから曳行などの各種行事、そして解体に至るまで従事していました。
 これに対して、上町、中町、本町の町場町内では、大祭の日は商家にとって一年で一番の稼ぎ時であり、自町内の屋台引き廻しは江戸期から町内の人々の役割ではなく、昭和初期までは各戸が自前で費用を負担し、自分の家の印半纏を着せて人足を出していました。
出発前の屋台人足  町場のそれぞれの家には、12月1日になると旧大宮郷周辺の村から毎年決まった人がやって来ました。彼らは風呂炊きや子守り、店の手伝いのほか、町内の家に代わり、代理人として屋号の入った半纏を着て、2日、3日の屋台の曳行だけでなく、組立てや解体にも責任を持って従事したのでした。
 そして、祭りが終わった12月5日、商家から渡された手土産を手に自分の村へと帰って行きました。これを買人足(「かいにんそく」)といいます。
 昭和20年代以降、農村との関係が希薄となるにつれ、家ごとに買人足を出す制度は半ば形骸化し、多くは町会で一括して募集する人足のアルバイトがこれに代わるようになりました。

  

屋台町の世帯数及び人口の推移 上段:世帯数  下段:人  口
町会名
1979(昭和54)年
1989(平成元)年
1999(平成11)年
2009(平成21)年
中近
1,371
4,633
1,414
4,632
1,612
4,631
1,721
4,493
下郷
1,118
4,111
1,274
4,259
1,478
4,409
1,565
4,204
宮地
1,398
4,872
1,447
4,559
1,571
4,284
1,578
3,898
上町
1,172
3,955
1,160
3,588
1,133
3,180
1,099
2,729
中町
354
1,174
 326
1,020
 336
 931
 304
 739
本町
165
474
 135
 363
 125
 322
 120
 276
秩父市
(総数)
17,186
62,407
18,474
61,861
20,638
61,215
26,360
70,378
埼玉県町(丁)字別人口調査(各年1月1日現在)



【はみ出しメモ】

宵まち(本町と中町)  秩父夜祭というと12月3日の一日だけと思われがちですが、祭り本番前日の2日にも、「宵まち(宵宮)」と呼ばれる行事が行われます。
 この日は午前から宮地、上町、中町、本町の4台の屋台がそれぞれの町内を出発し、昼過ぎに秩父神社の境内に曳き揃えられます。また、上町屋台と中町屋台では、この日に「宮参り」が行われるとともに、「曳き踊り」も上演されます。さらに、夜の6時から8時までの間、提灯と雪洞を付けた上町、中町、本町の3台の屋台が「大通り」を往復し、この間、羊山公園でスターマインの打ち上げも行われます。
 昭和30年代まで、上町、中町、本町の町場の3町内では、12月1日には屋台が曳き出され、夜、提灯と雪洞に明かりで屋台芝居が上演されたり、2日には宮参りや曳き踊りが行われるなど、たいへん賑わったものでした。
 やがて宵まちは行われなくなりましたが、昭和53(1978)年に中町復活し、今では定着した行事となっています。
 宵まちには見物に対する規制がなく、「宮参り」、「曳き踊り」、「すれ違い」、「ギリ廻し」などがゆっくりと御覧になれます。




祭りの担い手

神幸行列  例大祭では、秩父神社によって古来から行われていた祭祀に加えて、付祭りとして、18世紀初頭から屋台町による屋台行事が、さらに、大正年間からは煙火主催町による煙火が行われてきました。
 こうした神社と町会による例大祭の旧来の体制に対して、昭和27(1952)年、秩父市観光協会(現「秩父観光協会」)が設立され、その前年に商工会議所によって始められた「商工観光祭」を共催。この時から観光協会という新たな担い手が例大祭への「食い込み」を図るようになりました(以降、「商工観光祭」(〜昭和38年)、「産業観光祭」(昭和39〜46年)、「秩父夜祭観光祭」(昭和47年〜現在)として現在に至る。)。
屋台行事  観光協会は、煙火主催町の煙火が終了した後に、「煙火第二部」を主催するなど、例大祭の期間中に、伝統行事の周辺に新しい行事を組み込むという形で、例大祭の一画へと進出することに成功しました。しかし、祭りの花形である屋台行事に観光協会が介入する余地はありませんでした。
 今日も町会と観光協会との相互関係は、かなり対抗的であり、時として反目することもあります。特に、観光協会が例大祭を観光的に利用したり、改変しようとすると、町会側から激しい反発を受けることになります。
観光協会による郷土芸能公開  それは、観光協会の歴代の活動的な役員が合併により秩父市域となった周辺地域に多く、強い経済力をバックに地域集団(町会)を超えた任意集団(観光協会)に参加し、活動することによって、社会的評価を得ようとしてきたのに対し、町会には笠鉾・屋台を所有し、伝統的に屋台行事を執行してきた者としての強い自負と誇りがあるからです。
 例大祭における町会と観光協会は、祭りの中心である屋台行事を行う特権を有する町会が常に「優」、観光協会が「劣」という関係にあり続けてきました。
 昭和46(1971)年、屋台町会と観光協会との関係を象徴する出来事が起きました。
 当時の観光協会会長(秩父市長が兼務)は、岐阜県高山市の「屋台会館」と同様の施設を秩父市内に建設することを企図し、この年に2度役員を高山市に視察に派遣するなどの準備を進めていました(笠鉾・屋台の実物展示を計画。現在の「秩父まつり会館」とは別物)。
 この動きが報道されたのが例大祭の直前、屋台町会では準備の真っ最中でした。町会はこれに一斉に反発し、12月3日の秩父神社例大祭における笠鉾・屋台の曳行中止を決定し、その旨の申入書を屋台町会連名で観光協会会長に突きつける事態になりました。
 12月2日夜、各町会の代表者が秩父神社参集殿に集められました。2時間にわたる観光協会からの事情説明と謝罪を受けて曳行中止は撤回され、3日の朝から笠鉾・屋台の曳行が始まりました。その翌日、観光協会会長は辞表を提出し、その職を去ったのでした。
 今日、秩父夜祭の屋台行事について秩父観光協会に問い合わせても、期待した回答が得られない。観光協会のホームページにある夜祭の説明を見ても要領を得ない上に、次のような文章に遭遇します。「なんといっても、豪華な彫刻が施され、動く陽明門とも形容される笠鉾、屋台の山車6台のけん引です。引っ張るコースは市街地が中心で、四つ辻などでの方向転換は、キリン(ジャッキ)などを使い山車を回しますが、これも見ものの一つです。」(秩父観光協会秩父夜祭
 こうした屋台行事に対する認識の欠如は、単に観光協会の勉強不足というよりも、屋台町とは根本的に異なる、観光協会の存立基盤そのものに由来するものと考えられます。



【はみ出しメモ】

女性の屋台人足  今日、秩父夜祭を訪れる人々を落胆させているものに、大勢の女性が屋台を曳く光景があります。
 女性が屋台人足として参加するようになったのは、それほど古いことではなく、上町屋台に女性が初めて参加したのが昭和50年代後半。今日、女性が人足の大半を占める中町町会が女性を人足として正式に認め、6人の女性が参加したのは、平成2(1990)年のことでした。
 その後、女性の曳き手を認めない中近以外の町会で、女性の割合は増え続け、勇壮な男の祭りを期待して訪れた見物客を大い失望させています。
 確かに、鉢巻き、軍手に地下足袋を着けて屋台の曳き綱を曳く女性の姿はいかにも不格好であり、酒に酔って嬌声を上げるなどの醜態は、祭り本来の洒落や粋とは程遠く、邪道と思われるかもしれません。
 しかし、屋台を曳くその姿は、かつて秩父谷の村々で痩せた畑を耕し、力仕事に耐えて、貧しくも逞しく生き抜いた秩父女の再現と見ることもできるのです。




移り変わり

 ここでは、例大祭の戦後における主な出来事と変遷を見てみましょう。
 昭和21(1946)年、戦争のため中止していた6台の笠鉾・屋台の曳行と秩父公園での花火大会が復活しました(昭和20年は本町屋台が秩父神社境内に組み立てられ、夜、同境内から番場通りを約50メートル曳行)。
事件を伝える新聞記事(昭和22年12月5日埼玉新聞)  昭和22(1947)年12月3日、長い戦争が終わり、人々の生活に明るさと安定を取り戻し始めたこの年の例大祭は快晴に恵まれ、近来にない約10万人の人出となりました。午後10時40分頃、秩父公園(御旅所)での見物を終えた人々の流れは公園を横切って北方向へと進み、群衆となって秩父鉄道御花畑駅付近に殺到。6人が圧死、数十名が重軽傷を負う惨事となりました。
 この事件をきっかけに、翌年の昭和23(1948)年、煙火の打ち上げ場所が秩父公園(御旅所)から羊山に変更され、現在に至っています。
 昭和25(1950)年4月1日、秩父町は市制を施行。この年の例大祭では、市役所がトラック2台を出して除雪作業に当たりました。人出は約6万人。午後11時半から羊山で7台の仕掛花火が上げられ、市内5か所の映画館、演芸館は深夜興業ののち無料の宿泊所になりました。そして昭和30(1955)年、この年は豊作とあって関東各地から集まった人出は10万人を突破し、戦後最大の賑わいとなりました。市街には1千数百店の露店が出店。サーカス、見世物なども大賑わいで、午後11時半から仕掛花火が行われ、雑踏は夜明け近くまで続きました。
開業前の西武秩父駅  昭和44(1969)年10月14日、西武秩父線が開通し、秩父は池袋と直通電車で結ばれました。この年の例大祭は、それまで見物客の大多数を占めていた埼玉県北部や群馬県、北関東からの見物客に加えて、埼玉県西部や東京都内、南関東からの見物客を迎え、20万人という空前の人出となりました。この年から前年までと比較にならない混雑を経験することになりました。
 例大祭は、西武線利用客の帰宅時間に合わせて、煙火の開始時刻がそれまでの午後10時半から午後8時へと変更。これにより、一部の屋台がまだ曳行されている最中に煙火が終了することになり、御旅所に6台の笠鉾・屋台が扇状に並ぶ中、羊山から煙火が上がるという、この祭りにとって象徴的な光景が失われました。また、笠鉾・屋台の帰還の時刻も繰り上げられ、午後10時半には笠鉾・屋台が御旅所から自町内に向けて出発するようになりました(平成8年から原状回復して0時過ぎに御旅所出発)。
番場通り。写真奥から手前方向に神幸祭の行列が進みました。先頭の中近笠鉾は、この位置で30分以上停止しました。  昭和52(1977)年、観光客の増加に対応して、秩父神社から御旅所までの神幸祭の順路が変更され、秩父神社の鳥居前から番場通りを直進するコースから、「大通り」を迂回するコースに変わりました。
 コースの変更が決まった背景には、この年、埼玉県秩父地方庁舎前の道路拡幅工事が完了したことを受けて、狭い番場通りを通過することによる事故発生の危険を回避したい県警当局と、障害物への接触により屋根などを破損したくない屋台町との利害の一致がありました。
 さらに、平成5(1993)年、順路の再変更が行われ、上・中・本町の3台の屋台が秩父神社鳥居前から北に向かい、駅前通りから大通りへと周回するようになりました(平成17年から、逆に、秩父駅前通りから秩父神社鳥居前へと周回)。
 こうした順路の変更は、見物できる場所を拡大し、見物客の分散を図ることが目的でしたが、神幸祭への供奉という本来の趣旨から離れ、観光行事へとシフトするものとなりました。
 平成14(2002)年、祭りを構成していた空間が一つ消滅しました。
お化け屋敷  12月3日午後10時過ぎ、御旅所に6台の笠鉾・屋台が扇形に曳き揃えられ、斎場祭の神事が厳かに行われる。同じ「秩父公園」の一画ではオートバイサーカスの爆音、見世物小屋の不気味な絵看板に呼び込みのだみ声、お化け屋敷の妖しい電飾、夜空高く炸裂する仕掛け花火、これらの音と光が交錯する。ここは神聖と猥雑が入り交じった異次元空間でした。
 この年、この場所に現れるはずの異界はなく、あるのは工事用の仮囲いでした。次の年に姿を見せた「秩父市歴史文化伝承館」という名の建物は、その設計と施工が評価を受けるかもしれません。しかし、公共建築の在り方を考える時、この建築物は、発注者の側に周辺の歴史的背景やそこに暮らす人々の心情、祭りへの思いに対する配慮を欠いた、悲しみの象徴として存在し続けることになりそうです。 昭和25(1945)年から現在までの人出は→こちら



【はみ出しメモ】

大通りを通過する下郷笠鉾  昭和52(1977)年の例大祭は、露天商が出店しない異例の祭りとなりました。そのいきさつは次のとおりです。
 神幸祭の順路変更によりこの年から新たなコースとなった「大通り」の路面の形状は、中央部分がやや高いかまぼこ形で、しかも南方面に向かって右(西)側が僅かに低く傾斜しています。これに目を付けたある町会が大通りの真ん中でなく、左(東)側の車線を通行しないと右に進路をそれて倒れるという理由を付けて、東側の露店の撤去を要求。これに反発した露天商がすべて撤退する騒ぎとなったのでした。
 この年は12月3日が土曜と重なり、20万6千人の人出となったものの、露店が出ないだけでなく、サーカスや見世物小屋までが秩父公園での興業を取りやめ、街にいつもの空気はありませんでした。なお、この要求は翌年に撤回され、露天商も復帰しました。





笠鉾と屋台

笠鉾((左)下郷笠鉾・(右)中近笠鉾)  秩父神社例大祭に曳行される6台は、構造形式上「笠鉾」と「屋台」の2種類に分けられます。
 「笠鉾」は、中近と下郷の2台で、構造は、登勾欄の付いた4輪の土台部分に勾欄と腰支輪を四方に廻し、土台の中央から長い真柱(「標木」)を立て、下から3層の笠、万燈、せき台、頂に中近が御幣、下郷は太陽を付け、3層の笠には、緋羅紗の水引幕を吊り、造り花を放射状に垂らします。屋台囃子は土台内部の囃子座で行います。
  なお、大正3(1914)年に笠鉾の順路に電線が架設されたため、笠鉾本来の姿での曳行はできなくなりました。これ以降今日まで、中近では、笠鉾に附設されていた八つ棟造りの屋形のみを曳行し、当時屋型のない笠鉾を曳行していた下郷では、大正6(1917)年に土台部分の上に腰屋根付き四方唐破風造りの屋形(白木)を新たに建造して曳行しています。
張出舞台  「屋台」は、宮地、上町、中町、本町の4台で、構造は、4輪の土台に勾欄と腰支輪を四方に廻し、6本の柱で向唐破風造り(上町のみ四方唐破風造り)の屋根を支えます。
 屋台は中柱で前後に分かれ、前方が踊りや芝居を行う舞台、後方が後幕で囲まれた楽屋で、お囃子はこの楽屋で行います。
 屋根の軒には軒支輪を四方に廻し、その下に水引幕を吊り、舞台には下げ幕があり、中柱部分は廻り舞台になっていて正面に襖を立てます。
 屋台芝居を上演する時は、屋台本体の舞台の左右に張出舞台という付け舞台を付けて間口を広げ、芸座・仮芸座や花道などが設けられます。
茶びん  笠鉾、屋台の巡行の際には、2本の曳き綱に100人から150人の曳き手が付き、後ろには、「茶びん」(江戸天下祭りの「荷茶屋」と同形態)が随行します。  また、笠鉾、屋台の方向転換には、「ギリ廻し」(上町のみ「キリン」)の方式が採られています。
 これら2台の笠鉾と4台の屋台は、昭和37(1962)年5月23日に「秩父祭の屋台6基」として国の重要有形民俗文化財に指定されています。



2台の笠鉾と4台の屋台の特徴は次のとおりです。

中近笠鉾
 現在の笠鉾は3代目で、1880(明治13)年に造られた名工荒木和泉の傑作です。構造は八棟造りの屋根の上に、3層の笠を立てた大型の笠鉾で、勾欄に龍が巻き付いています。
 なお、1914(大正3)年の電線架設以来、鉾を立てずに曳行されています。







下郷笠鉾
 現在の笠鉾は3代目。本来の姿は、土台の上に3層の笠を立てた比較的簡略な造りの、秩父地方最大の笠鉾でした。
 電線架設後の1917(大正6)年、白木造り2層屋根の現在の姿になりました。







宮地屋台
 秩父最古の歴史を有し、登り勾欄のない古い形をとどめています。
 秩父の屋台の中では最も端正な形をしているといわれ、後幕には赤い髪の3匹の「猩々」(中国の想像上の霊獣)が描かれています。







上町屋台
 四つ棟造りの屋根と、登り勾欄が附設された比較的新しい形の屋台です。
方向転換には、この祭りでは唯一「キリン」を使用します。
 屋根は軒の出が多く、後幕には「鯉の滝登り」が描かれています。







中町屋台
 秩父の屋台の中では最大級で、屋根に乗る日本神話を題材とした巨大な彫刻と升組みを用いた腰組が特徴です。
 登り勾欄付きの新しい様式の屋台で、後幕には「波に海魚」が描かれています。








本町屋台
 登り勾欄のない古い形をとどめています。2重勾欄と呼ばれる勾欄が2段ある珍しい形式でしたが、1914(大正3)年の転倒事故以後、現在の姿になりました。
 多くの彫刻で飾られていますが、人物彫刻が一つもなく、後幕にはダルマなどの「玩具宝船」が描かれています。






笠鉾・屋台の変遷

上町屋台古写真  例大祭の当日、私達の前に雄姿を見せる2台の笠鉾と4台の屋台は、享保年間(1716〜36年)といわれる創建以来、それぞれの屋台町において莫大な財力が投じられ、度重なる改修が行われました。こうして、笠鉾・屋台は長い年月を経て、より絢爛、豪華なものへとその姿を変えて来ました。
 笠鉾・屋台の改修は、明治維新以降も笠鉾・屋台を所有する屋台町によって引き続き行われました。
 6台のうち、最も早く今の形に到達したのが中近笠鉾の明治13(1880)年、最も遅かったのは上町屋台の昭和12(1937)年のことでした。
 笠鉾と屋台が今日の姿になった時期を整理すると、下の一覧表のようになります。
《昭和12(1937)年   
   大改造前の上町屋台》


              各笠鉾・屋台の最終的な改修一覧

 名  称 
改 修 時 期  
 改 修 の 内 容 
 維持大修理 
中近笠鉾
明治13(1880)年
八棟造りの屋形付き笠鉾(屋台笠鉾)完成昭和36(1961)年
下郷笠鉾
大正 6(1917)年
腰屋根付き四方唐破風造りの屋形完成 昭和40(1965)年
宮地屋台
明治28(1895)年
四方に廻る勾欄・腰支輪新調昭和34(1959)年
上町屋台
昭和12(1937)年
大改造(登勾欄・軒唐破風附設)      ー 
中町屋台
明治23(1890)年
勾欄・枡組付き腰組新調。登勾欄附設昭和37(1962)年
本町屋台
大正 4(1915)年
勾欄・腰支輪新調(前年に二重勾欄が大破)昭和35(1960)年

下郷笠鉾が腰屋根付き四方唐破風造りの屋形付き笠鉾(「屋台笠鉾」)として完成したのは、昭和40(1965)年の維持大修理の時です。



明治時代の笠鉾・屋台
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中近笠鉾古写真      下郷笠鉾古写真     宮地屋台古写真

  《電線架設(大正3(1914)年)       《電線架設(大正3(1914)年)     《大正6(1917)年の宮地屋台》
           前の中近笠鉾》              前の下郷笠鉾》
 


上町屋台古写真     中町屋台古写真     本町屋台古写真

《脇障子があった頃            《大正期の中町屋台》          《 二重勾欄時代
(大正8(1919)年以前)の上町屋台》                          (大正3(1914)年以前の本町屋台 》
 



【はみ出しメモ】

 秩父神社例大祭に曳行される笠鉾と屋台は、創建以来、繰り返し改修が行われてきました。笠鉾・屋台が新しく造り替えられる際、旧部品の多くは散逸し、或いは町内の収蔵庫の奥などに今も眠っています。しかし、これらの中には、秩父地方の別の地区に譲渡され、その地区の祭礼に登場する例もあります。
 明治13(1880)年、現在の中近笠鉾が完成しましたが、その前年まで曳行されていた先代の笠鉾の土台部分は、明治30年に栃谷村(現秩父市栃谷)に57円で譲渡されました。現在は、栃谷上組笠鉾として7月末の栃谷の祇園に曳行されていますが、この笠鉾の勾欄には、中近笠鉾の伝統的装飾である龍の彫刻が巻き付いています。
 一方、下郷では明治29(1896)年に新しい笠鉾が完成し、その後、先代の笠鉾は、現在の皆野町原地区に譲渡されました。大正期に電線の架設に伴って笠鉾から屋台に改造され、現在は、7月21日の原の祇園に原屋台として曳行されています。その土台部分は、下郷笠鉾当時のものが現在も使用されています。
 さらに、12月の第2日曜日に小鹿野町飯田で行われる鉄砲祭りの際にも例大祭の屋台の旧部品に出会うことが出来ます。この祭りには飯田屋台が曳行されますが、屋台の張出舞台の両芸座のほか、屋根に取り付けられている鬼板と懸魚の彫刻は、かつての中町屋台のものであり、明治初年に秩父の中町から購入したことが文献上確認されています。

  栃谷上組笠鉾     皆野町原屋台。土台部分は下郷笠鉾の時のままです。     飯田屋台






笠鉾のその後

中近笠鉾  中近と下郷は一見しただけでは、どうして「屋台」ではなく「笠鉾」なのか、という疑問が湧きます。
 それは、この2台が本来、高さ15メートルを超す笠鉾だからなのです。
 大正3(1914)年に笠鉾の順路に電線が架設されました。
 それ以来、中近では、笠鉾に附設されていた八つ棟造りの屋形のみを曳行し、当時屋型のない笠鉾を曳行していた下郷では、大正6(1917)年に笠鉾の土台の上に腰屋根付き四方唐破風造りの屋形(白木)を新たに建造して曳行しています。
下郷笠鉾  したがって、毎年の例大祭では笠鉾本来の姿は見ることはできません。
 大正3(1914)年以降現在までに、中近では例大祭に2度、記念行事などのイベントに7度の合計9回、本来の姿を見せたことがあります。
 下郷では、白木の屋形を建造した後、笠鉾の部品が一部を除いて散逸したため、長い間「幻の笠鉾」となっていましたが、昭和40(1965)年の維持大修理で屋形の上に笠鉾が復元新調されました。以後、例大祭に2度、記念行事に1度笠鉾の姿を見せています。
 このように、例大祭に笠鉾本来の姿を見せる年は、秩父神社に飾り置きだけ。例大祭以外のイベントで曳行されることはあっても、電線のない、限られた区間だけというのが現状です。
 全国に誇ることのできる笠鉾を持ちながら、例大祭には曳行できない。その理由が市内に依然として張り巡らされている電線にあるといわれています。
 しかし、電線の架設から90年が経ち、今は21世紀です。多くの都市で街路整備が進み、電線が地上から見られなくなっている中、徐々に説明が付かなくなっています。

      笠鉾の飾り置き・曳行の状況(電線架設後)
時   期
場    所  
 事      由 




























昭和36(1961)年12月

昭和58(1983)年12月
大正11(1922)年11月
昭和25(1950)年 4月
昭和42(1967)年10月
昭和53(1978)年10月
昭和63(1988)年 3月
平成12(2000)年 5月
平成16(2004)年10月

秩父神社境内

同上
秩父神社境内
同上
秩父公園
明治神宮外苑絵画館前
埼玉博覧会場曳行
秩父駅・大通り・秩父神社を曳行
秩父市文化体育センター

維持大修理

水引幕・標木等復元新調
秩父宮家創設
秩父市制施行
埼玉国体
日本商工会議所百周年記念
埼玉博覧会オープニング
秩父市制施行50周年記念行事
彩の国まごころ国体












昭和40(1965)年12月
昭和61(1986)年12月

平成 9(1997)年 4月
秩父神社境内
同上

秩父神社・大通りを曳行
維持大修理
御簾等復元新調

秩父神社平成造営事業記念


【はみ出しメモ】

廣見寺本堂の扁額  大正3(1914)年の電線の架設は、中近・下郷の2台の笠鉾にとって致命的な痛手となりました。
 特に、当時、屋形のない笠鉾を曳行していた下郷では、大正6(1917)年に笠鉾の土台の上に腰屋根付き四方唐破風造りの白木の屋形が建造されましたが、その後、笠鉾の部品は散逸してしまいました。
 その中で、唯一、万灯(4枚のうち1枚)だけが秩父市下宮地町の廣見寺本堂の扁額として現存しています。
 豪華な波に千鳥の彫刻を施された扁額は、かつて祭りの晴れやかな舞台にいた下郷笠鉾の万灯であったことに気付かれることもなく、今日も廣見寺を訪れる人々を静かに迎えています。






笠鉾・屋台のはじまり

 秩父神社例大祭に、付祭として笠鉾・屋台の曳行が始まった時期は、寛文年間(1661〜73年)であると長く伝承されてきました。そして、一般的には、初めに簡略な笠鉾が曳行され、その後に屋台が建造されたと考えられてきました。
  しかし、最近の研究成果によれば、屋台の原初形態が登場した時期は、これより後の、享保年間(1716〜36年)であり、笠鉾より先に屋台が建造されたことが明らかになってきました。
 この時期、絹織物が盛んになり、財力に余裕の出てきた大宮郷の人々は、結城文右衛門と八郎左衛門という2人の人物を招き、その指導で造られたのが、宮地、上町、中町、本町の4台の屋台であり、 この後に、中近が加わりましたが、これも当初は屋台であったものが後年、笠鉾に変わったと考えられています(下郷の笠鉾が加わるのはさらに後のことでした)。
  それでは、この2人の人物はどこから来て、どこの屋台や屋台行事を導入したのでしょうか。
  この問題に対しては、「江戸系」を中心にして、全国的な視野で、「出し」を系統的に整理、把握する課題に正面から取り組んでいる新進気鋭の研究者、作美陽一氏がその著書「大江戸の天下祭り」(河出書房新社1996年)の中で明確な答えを出しています。
  それは、屋台の先進地である江戸です。江戸では、享保6(1721)年に、享保の改革によって屋台が禁止されるまで、1つの町内で、比較的簡単なつくりの山車(「笠鉾」、「吹貫」など)と大型で舞台や楽屋が備わった屋台とがセットで曳行されていました。
江戸型山車(笠鉾) 川越氷川祭礼絵巻  それでは、この時大宮郷に導入された屋台や、後に登場する笠鉾は、どのような経過をたどったのか、作美氏の論説に沿ってみていきます。
  まず、屋台について、創建当初の秩父屋台は、江戸屋台のコピーだったものが、寛政年間(1789〜1801年)に、江戸型から離れて秩父型として確立しました。

江戸型屋台と荷茶屋(にないぢゃや)   この時期、秩父絹の全盛を背景に、各屋台で盛んに改修が行われ、それまでは幕装飾が主だった屋台は、彫刻が多用されて、より豪華になり、今日の「秩父型屋台」の基本形が完成しました。また、秩父屋台最大の特 徴である「張出舞台」の様式が確立したのも寛政年間だといわれています。

左・宮地屋台(張出舞台)と 右・中近笠鉾   笠鉾については、秩父笠鉾も当初は、江戸の笠鉾を模した1層花笠の簡単なものでしたが、寛政7(1795)年中近笠鉾が3層花笠になったことにより、江戸型から離れて「秩父型笠鉾」として確立しました。
 この時、中近によって始められた3層花笠の形式は、以後、秩父地方における笠鉾の一般的な形態として普及していきます。  このように、享保年間に大宮郷に導入された江戸の屋台と笠鉾の形式が、「秩父型」として独自の発展を遂げながら、今日まで継承されてきたと考えられています。

【はみ出しメモ】

 秩父の笠鉾、屋台の原型となった、江戸天下祭り(神田祭、山王祭)の曳き山の様子をもう少し見てみましょう。
 江戸では、元禄年間から享保年間(1688〜1721年)まで、「山車」と「屋台」の時代がありました。「山車」は1本柱構造の曳き山(「笠鉾」、「吹貫(ふきぬけ)」など)であり、「屋台」は、 正面12尺、奥行き18尺と大型で舞台や楽屋が備わった豪華絢爛な曳き山でした。この時期は、1つの町内で「山車」と「屋台」、それに母衣武者や唐人などの仮装行列などが出されていました。

《川越氷川神社蔵 川越氷川祭礼絵巻(文政9(1826)年) 川越市立博物館第11回企画
展図録「川越氷川祭礼の展開」から転載》6番鍛冶町の行列。先頭の山車に続いて練物、江戸型屋台、行列の最後尾に荷茶屋(にないぢゃや)が進みます。享保6(1721)年 の屋台禁止は江戸に限定されたため、川越氷川祭礼では享保以降もこのような行列が行われていました。


川越まつりの山車  しかし、享保6(1721)年、享保の改革によって、このうちの屋台が江戸で全面禁止となったことにより、大型の屋台は、以後、江戸から永久に姿を消すことになります。
 なお、今日、私達が江戸型の山車として認識している山車(川越まつりでおなじみの「二重鉾台型山車」)が登場し、江戸天下祭りの主役的な存在になるのは、天保年間(1830〜44年)以降のことです。




秩父夜祭のみどころ

 秩父夜祭のみどころは、祭りのクライマックスといわれる団子坂曳き上げだけではありません。朝から深夜にわたって行われる祭りの日には、実に多彩な行事が繰り広げられます。
 ここでは、これらの中から特にチェックしたいシーンをご紹介します。

☆ 笠鉾・屋台の宮参り
 「秩父夜祭」と言っても、祭りは夜だけではありません。
 12月3日の朝、笠鉾・屋台は各町会を出発すると、まず秩父神社に宮参りに向かいます。秩父神社境内に入った笠鉾・屋台は、神門の階段下に曳き付け、神官から御祓いを受けるのです。
 秩父の街に1年ぶりに姿を現した6台の笠鉾と屋台が、昇ったばかりの太陽の光に燦然と輝きながら大通りを進み、次々と神社の境内に入って行きます。祭りの長い1日の始まりです。
 この日最初の宮参りが行われるのが午前9時頃。その後、順次各町会の笠鉾と屋台が宮参りに神社境内に入り、宮参りが済むと再び街へ出て行きます。
 すべての宮参りが終わるのは、正午過ぎ。この間、秩父神社境内にいれば、6台の笠鉾・屋台が1日のうちで最も華麗な姿を見せる、祭りの朝のシーンを目の前で、しかも、ゆっくりと見ることができます。

☆ 秩父神社神楽
 例大祭の当日、笠鉾、屋台の宮参りなどで終日賑う秩父神社の境内ですが、耳を澄ませば、笠鉾、屋台の秩父屋台囃子に混じって、厳かな音色が聞こえてきます。「秩父神社神楽」の音色です。
 秩父神社神楽は、国の重要無形民俗文化財に指定され、例大祭期間中の12月2日、3日、6日の昼間、秩父神社境内にある神楽殿で観ることができます。
 秩父神社神楽は、現在、三十五座を演目とし、「天の岩戸開き」を中心に、高天原神話から出雲神話に至るまで、古典神話を題材にきめ細かく組み立てられ、演目の中に演劇的な表現が多いのが特徴となっており、静的で優雅な中に軽妙な滑稽味を含んでいます。
 また、3日の夜遅く、御旅所では、演目のうちの「代参宮」が演じられますが、これは面を着けない二人舞で、古風を残す代表的な神楽といわれています。
 
☆ 笠鉾・屋台の方向転換
 笠鉾、屋台が方向を転換する際、「ギリ廻し」と呼ばれる他所では余り見られない作業を見ることができます(上町屋台だけは「キリン」という装置を使います。)。
 まず、笠鉾・屋台の後ろに、てこの支点となる台をセットして2本のてこ棒をかいます。
 次に、2本のてこ棒に各10人ほどが取り付いて笠鉾・屋台の後ろの車輪を上げます。
 この間に笠鉾・屋台の土台下中心部のくぼみの位置に、台のついた棒(「ギリ棒」)を地面と垂直にセットした後、てこ棒にかけた力を静かに緩めると、4つの車輪が地面からわずかに浮きます。
 ここでてこ棒を外し、笠鉾・屋台の腰まわりに20人前後の曳き手が取り付いて、ギリ棒を軸にして一気に方向を転換するのです。
 この間、秩父屋台囃子は大太鼓の演奏を止め、小太鼓による「玉入れ」という曲目が演奏されます。

☆ 屋台芝居
屋台芝居  12月3日の昼頃から午後3時頃まで、屋外に組み立てられた舞台で秩父歌舞伎による屋台芝居が公開され、大勢の見物客で賑わいます。
 宮地、上町、中町、本町の4台の屋台は、歌舞伎を上演できる構造形式になっていて、屋台芝居を上演する際は、屋台の左右に張出舞台という仮設の舞台を付けて間口を広げ、本芸座仮芸座花道(上町のみ)などが設けられます。また、屋台本体には回り舞台が備えられています。
 屋台芝居は、4町内の当番制で、歌舞伎の上演は、宮地、上町、本町が秩父歌舞伎正和会、中町では小鹿野津谷木歌舞伎が務めています。
 当番の順番と上演場所は、上町【平成22年・上町町内】、中町【平成23年・ベスト電器前】、宮地【平成24年・秩父神社境内】、本町【平成25年・秩父神社境内】の順となっています(以後もこの順序で当番が回ります。)。

☆ 笠鉾・屋台のすれ違い
 秩父神社での宮参りが済むと、中近・上町・中町・本町の4台の笠鉾・屋台は、境内を出て「大通り」を上町方面に向かいます。
 本町から上町までの「大通り」では、これらの笠鉾・屋台がこれから神社方面に向かう屋台とすれ違うところを見ることができます。
 江戸時代の秩父往還以来の幅員しかない道路は、両側に露店が立ち並んでさらに狭く、双方向から来た笠鉾・屋台同士、張り出した屋根の軒が接触しないよう慎重に進み、左側通行ですれ違いを行います。
 この間、前方から近付いて来る笠鉾や屋台に負けまいと、秩父屋台囃子の太鼓にも互いに一層力が入り、すれ違う2台の周囲はたいへんな盛り上がりを見せます。

☆ 曳き踊り
 12月2日の午後には上町、中町の屋台が、3日の午前には宮地、中町、本町の屋台が、それぞれ巡行の途中で止められ、舞台の上で長唄の曲を演奏する「地方連中」とその曲を踊る「立方」による「曳き踊り」と呼ばれる所作事が上演されます。
 日頃、日本舞踊の稽古を積んだ5、6歳から中学生までの女子達が「藤娘」、「末広狩」、「菊づくし」、「三番叟」などを優雅に踊ります。
 曳き踊りを演じる場所は、街の辻、町会所、神社の神門前など、各屋台とも決まっています。屋台町によっては、曳き踊りを行う時の屋台の停止位置まで厳格に守られており、「○○商店の右の角と屋台の中柱を合わせる」という決まりを遵守するために、僅か数センチ単位で屋台を前後に移動させるという場面も見られます。
また、3日の夜10時過ぎ、御旅所に到着した笠鉾・屋台が扇状に並ぶ中、宮地、上町、中町、本町の順に、提灯と雪洞の明かりに浮かび上がる舞台で演じられます。

☆ 神幸行列と神馬
御神馬  12月3日の昼間、秩父神社境内にある神馬舎の中に2頭の神馬がいるのを見ることが出来ます。
 この日の夜明け前、秩父市中村町にある井上家に2頭の馬が到着します。ここで、神馬になるための装束が付けられます。神馬は、鎌倉時代の「宮本地頭」の役割を受け継ぐ秩父神社の大総代である井上家が毎年奉納しています。
 8時過ぎ、神馬となった2頭の馬は井上家を出発し、中村町から秩父神社に向けて巡行する中近笠鉾の前を秩父神社へと世話人に引かれて行きます。神社に到着すると神官からお祓いを受け、夜の出発まで神馬舎の中で待ちます。
 夜の6時半、笠鉾・屋台の巡行に先立って、神幸行列が秩父神社を出発して御花畑の御旅所へと向かいますが、この行列の最後尾を飾るのがこの2頭の神馬です。
 御旅所での斎場祭が終了し、再び秩父神社に帰ってくるのが翌日の午前3時過ぎ。大祭の日は、神馬にとって長い一日となります。

☆ 御旅所へ向けて秩父神社を出発
 初冬の日が西の山に沈み、夜空に星が瞬く頃、神社の社殿では夜の出発のための儀式が行われています。
先頭を行く中近笠鉾の行事が拝殿で秩父大神から出発のお許しを戴くのです。
 神社は発進の木札を神前から頂戴して拝殿で中近の行事に渡し、行事はこれを戴いて笠鉾まで行き、出発は秩父大神の御命令であるによる旨を「発進札」を高く掲げて口上を述べます。ここで初めて秩父屋台囃子の太鼓が打ち鳴らされます。
 境内を埋め尽くしていた人々から湧き上がる歓声。打ち振られる無数の提灯。それまで静まり返っていた境内の様相が「静から動へ」と一変する瞬間です。
 午後7時。中近笠鉾が御旅所に向けて秩父神社を出発します。

☆ 諏訪渡り
諏訪渡り  秩父夜祭には、こんな伝承があります。
 夜祭の神幸行列は、年に一度、秩父神社がある「柞(ははそ)の森」の妙見様(女神)が、武甲山の男神と逢い引きするために御旅所に行くのだと。途中、行列が番場町の諏訪神社の近くを通る時は、音を立てずに静かに進む(「諏訪渡り」)。賑やかだと諏訪神社の女神が妙見様に嫉妬して禍をなす。さらに、この伝承では諏訪神社が男神の本妻で妙見様が妾だとされています。
 12月3日の夜、中町屋台が「大通り」を御旅所に向う途中、諏訪神社の入口に当たる「本町まちかどギャラリー」の角にさしかかると、屋台囃子が止められ、囃し手(中町では「梶取り」といいます。)は提灯を振るだけで声を出さなくなります。ここから本町会所まで、屋台が音もなく静かに曳かれるという珍しい光景を見ることができます。
 1977(昭和52)年、神幸行列の順路は、番場通りから現行の「大通り」に変更されました。「諏訪渡り」への対応は、現在、屋台町により様々ですが、中町は伝承に忠実に従った行事を行っています。

☆ 御旅所からの帰還
 日付が替わって12月4日午前0時20分。
 御旅所での祭礼行事が終ると、6台の笠鉾・屋台、それに秩父神社の神幸祭の行列が帰り始めます。
 笠鉾・屋台の団子坂の曳き下ろしでは、通常の後綱2本のほかに、曳き上げの時に使った増し綱2本を今度は後ろに廻して、計4本の綱に曳き手が腰を降ろしてつかまり、柱からも芯綱4本を後ろに降ろしてバランスをとりながら、笠鉾・屋台が慎重に坂を下ります。

 団子坂を下り、見物客も既にいなくなった夜道を笠鉾・屋台が提灯・雪洞に明かりを灯してそれぞれの町内に帰っていきます。
 降り注ぐような冬の星空の下、祭りが終焉の時を迎えようとしています。
 笠鉾・屋台が自町内の収蔵庫前に到着するのは、早い町内で午前2時過ぎ、遅い所では4時を廻ります。

【はみ出しメモ】

 秩父市出身の若手人気落語家、林家たい平初の落語CD「〜林家たい平落語集〜たい平よくできました」(2枚組)がコロムビアから2004年4月21日に発売されました。
 収録演目は、「七段目」、「不動坊」、「芝浜」のほか、ボーナストラックとして「実況?秩父夜祭り」です。
 「実況?秩父夜祭り」は、秩父での落語会でしか聞けない「人間秩父夜祭」。12月3日の夜祭の情景が、たい平師匠得意の物真似で再現されています。
 高座では日頃から、市川団十郎、中村福助の声色を始め、大滝秀治や滝口順平から柳家とし松まで、幅広い物真似で楽しませてくれるたい平師匠です。
 「実況?秩父夜祭り」では、秩父屋台囃子の「大太鼓」に「玉入れ」、「車輪の軋む音」、「秩父警察広報班」、「御花畑の踏切」、「オートバイサーカス」に「見世物小屋」、そして、お馴染みの「大スターマイン」と、秩父神社から御旅所までの秩父夜祭の多彩な場面が繰り広げられています。詳しくは こちら
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 林家たい平師が柳家喬太郎師とともに真打ちに同時昇進したのが2000年の春。将来を大いに期待された二人でしたが、最近の高座を見る限り、近年伸びの著しい喬太郎師にたい平師は大きく後れを取っているように見えます。
 やはり『笑点』大喜利メンバーになったことが結果的に精進の機会を奪ったように思えてなりません。笑点出演が自らのキャリアに大きなウエイトを占めるのはわかりますが、笑点ネタのマクラやくすぐりを繰り返すたい平師の高座を見ると悲しくなります。「芸が荒れた」との声も聞かれます。
 テレビ出演も実力の一つ。タレントとしてやっていくのも良いでしょう。しかし、たい平師にはほかの落語家にない非凡な才能があります。どうか噺家としての芸を着実に磨いていって欲しいものです。
 頑張れたい平!負けるな喬太郎


【参考文献】 ●中村知夫「秩父神社例大祭の変容と対抗」
(『埼玉民俗』第34号 2009.3)

(2001年10月10日 中村 知夫)

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